2012年12月29日

木の家スクール 名古屋2012 第6回:10/27(日)

出之小路山(岐阜県)フィールドワーク

 

講師: 内木 哲朗 氏

 

尾張藩の山守の末裔(20代目)内木哲朗氏のご案内で、江戸時代には立ち入りを禁じられ“不入山”と呼ばれていた出之小路山(いでのこうじやま)に入山する機会を得ました。

 

■出之小路山とはどこ?

 岐阜県中津川市から20〜30㎞位北に川上村、付知村、加子母村があります。その辺りは銘木の産地(美濃、飛騨、木曽)の中心に位置し、裏木曽三ヵ村と呼ばれています。木曽と裏木曽にまたがる地が出之小路山です。現在も国有林ですので、入山には森林管理署への届出が必要です。 

■出之小路山の入口に立つ「木曽ヒノキ備林」の看板の記載

概況 (平成10年調査)

面積 730ha    蓄積32万㎥

主要樹種  木曽ヒノキ 76% サワラ33%

樹齢 300〜400年

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■山を守る“山守”とは?

山守とは尾張藩から山の管理を任された云わば公務員。管理の仕事には 樹木の管理をするだけでなく、境界線(幕府と藩、藩と藩)の管理、建築の確認、鷹の巣管理、山火事の消火活動、山の案内、森林警察の役目などが含まれ、山に関係する全ての仕事を任されていました。

 

境界線の管理とは、境界線上に直径約8mの周囲を石積みをして小山を築き、定期的な点検と修理を指します。境界線の長さと立地の悪さを考えると、ものすごい仕事量です。

 

鷹の巣の管理とは、巣山に雛が孵ると、幕府などに献上する鷹狩り用の鷹に育て上げるため、幼鳥のうちに巣から降ろして鷹役所へ送る仕事のこと。鷹の巣がある事を理由に入山禁止にするのは、良い木を人目から隠す目的もあったそうです。各地にある鷹巣山、巣山などの地は、銘木の産地なのでしょうか。

 

管理する山の面積は約3万ha。そのような膨大の仕事をこなす為には、年間260日は山に入り、山小屋などで暮らす日々だったとのこと。山守は苦労が多い割には報酬の少ない下級武士のようです。

 

■  出之小路山の桧の嫁ぎ先

杉村啓治氏の裏木曽三ヵ村の歴史年表をみると、昔から大桧が各地に供給されています。

・建仁 3年(1203年)伊勢外宮遷宮桧材を美濃より出す

・慶長14年(1609年)名古屋築城には総数38,000本のうち、66%に当たる桧大材25,000本が川上村から切り出されたと記述が残っています。

・天保  9年(1838年) 江戸城西の丸再建用材

・天保15年(1844年) 江戸城西の丸再建用材

・昭和9年(1934年) 姫路城の昭和の大修理の時に、芯柱として桧大材を

・伊勢神宮の式年遷宮には現在も大木を切り出しています。

・現在工事中の名古屋城の本丸御殿の復元にも木材を協力しています。

 

■  出之小路山では植林をしない訳

一般に植林の苗木は、地上に伸びた茎と同じ位の長さに直根を切り、柔らかな土壌に植えられます。長い直根を短めに切ることで横根が生え、横根が土中の養分を吸収し、幹の成長を促す効果があります。しかし岩場では短い直根と細い横根では成長した幹を支えられなくなり、雨で流されてしまいます。岩だらけの出之小路山では実生でしか木が育たないのです。当然、長い根を持つ実生では栄養を長い根にとられ、幹の成長は遅くなります。生育環境の厳しさとあいまって、それが結果として目の詰んだ良材の桧を生み出す一因にもなっています。

 

■  裏木曽三ヵ村の税の変遷

享保13年(1728年)まで、裏木曽の三ヵ村では年貢を土居、搏(くれ)、板子と呼ばれる一定の大きさと形の桧材で納めていました。塊の木材は薄板に割られ、屋根材として利用されました。江戸時代はサワラの価値は低く、桧材での納税を義務付けられていたそうです。

土居は直径3尺×長さ5尺以上の丸太を中心からみかん割にし、白太と芯を落とした台形の形。

搏は長さも幅も土居の半分ぐらいの大きさで、小径木から作られるサイズ。

元和5年(1615年)は 三ヵ村で 土居2,160駄(1駄=4本)+搏4万丁の記録があります。1729年からは、米納または金納になったそうです。伐採をしすぎて納税する桧材が無くなったのでしょうか?

 

■  トレーサビリティー

木材を川に流して輸送する絵を見ると、木材一本一本に記号や文字が書かれています。

生産地、樹種 長さ、幅、厚さ、伐出した人、場所などが記載されているそうです。

昔は品質管理もトレーサビリティーも現在以上に進んでいたことが伺えます。

 

■いよいよ山の見学

①最初に次の式年遷宮のご神木の切株を見学しました。ご神木とは内宮と外宮の御神体を納める器(御樋代=みひしろ)の材となる木を指します。御神木に選ばれる条件として、切り倒された2本の木が“人”の字を描くように重なる位置にあること、ご用材に相応しい樹齢と良質な木であること。その二つを満たす2本の木を探すのは、出之小路山でも大変なことだと説明がありました。2本のご神木が切られた跡地周辺だけは光を遮る大木がないので異様に明かるく、足元には桧やサワラの新芽が芽吹いています。桧とサワラの陣取り合戦の始まりです。この場所では、サワラが桧より優勢だそうで、いつかサワラ林になるのでしょうか。

②つぎは、次期遷宮(平成25年)のご用材に、一番最初に斧を入れた処(伊勢神宮式

年遷宮斧入式跡地)の見学です。看板には平成9年に斧入れ、高さ22m、胸高直径70

㎝、樹齢350年と記されています。遷宮の16年前には、木材の手当てを始めると言う

事は、遷宮が終わるや否や、次の遷宮の準備を始めるということですね。この場所の対

岸に、昭和9年の室戸台風で折れた初代千年のヒノキの切株を見ることができます。

 

③二代目の千年の桧は車道から山道を30分ほど歩きます。出之小路山は岩石がごろごろ積み重なっている岩山なので、どの木々の根も幹より太く、岩を抱きかかえ、横に斜めに根を張り巡らしています。やっと辿り着いた千年の桧は、高さ26m、胸高直径154㎝、材積17㎥。枝を崖側にだけ伸ばし、凛々しく直立していて、樹木に寿命はないかのようです。

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■  加子母村観光

①  明治座 

芝居好きの東濃地方にはかつて60以上の農村舞台がありました。中でも大きいのが、明治27年に村の有志たちによって建てられた加子母村の明治座です。長さ8間近くもある桟敷をまたぐ樅丸太も実生なのでしょう。人力で動かす廻り舞台、役者が自分で昇り降りするスッポン、瞬時に背景を転換する切りくずしなど、知恵と工夫にあふれています。2階客席の手すりが低く(40㎝程度)、舞台を間近に感じられ、百歳を越えてなお現役の芝居小屋として愛され続けるのが判ります。この明治座に使われている桧はたったの1本とか。江戸時代には厳しく使用が制限されていたヒノキ材を娯楽のために使うことを憚ったのかもしれません。さてその1本、どこに使われているのでしよう?

 

 

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②  山守 内木家

門の前には見事な雌のカヤの木。門をくぐると見事な百日紅の木。さらにその奥にも大正時代に東久邇宮が当地を通行するにあたり休憩された部屋もそのままに残されています。築約200年の内木家のガッチリした造り、広々とした間取り、客間の大黒柱から台所の東の端まで約4間を掛け渡してある梁の大きさと大黒柱の太さなどから、この建物はただの豪邸ではなく、迎賓館+お役所+収蔵庫の役目を担った建物故なのだと憶測できます。

 

他にも見所満載の加子母村ですが、今回はこれでお仕舞い。時間切れでした。

内木さんの山でのお話は建築関係者用、一般の大人用、子供向け、女性向けなど、など、

いろいろなバリエーションがあるそうです。またの機会に加子母村を再訪し、

別バージョンのお話を伺いたいものです。

 

■  おまけに、移動中のワゴンの中で内木さんからお聞きした興味深い話を紹介します

Q1現在の森と、昔の森の大きな違いは?

A1江戸期は択伐をして、実生によって森がよみがえり循環するシステムでした。だから、下草刈り、枝打ち、間伐も必要ない、山に任せた林業です。

江戸期には、身分上、一般人は建材としてヒノキを使えなかったことから、クリなどの雑木もニーズ、リクエストがあったようです。 そのため、クリなども植林していました。 その場合、実生の苗の直根を伐らずに移植していました。結果として、山に実が生り、熊や猿も生き場所があったわけです。

 

Q2なぜ、鼎伐りにする必要があるのか?
A2大木を伐るときには、現在のチェーンソーでの伐り方だと、途中で裂けてしまう恐

れがあります。鼎伐りは3か所残してくり抜くのですが、倒す方向を広めにとって

おくことで、正確に倒す方向を定めることができるのだそうです。それほどの大木

でなければ、今の伐り方でも問題ないのですがというお話でした。
 
 
 

 

Q3急峻でまともな道のない山の中で、どのように木材を伐りだしていたのか?

A3 杣人は10数人でチームをつくり、伐採などの時期になると山小屋をつくって、
長期にわたりその中に寝泊まりして作業をしていたそうです。 戒律が極めて厳しく、大変だったようです。

 

Q4どのように川に流したのか?

現在の谷川を見ると、とても材木が流せるような水量ではないが、どうして流すことができたのかという質問をした。

A4材木で堰をつくり、水をため、堰を解いて一気に流したとのこと。当時は広葉樹が多かったことから水量がもっと豊かだったのではないだろうか? 針葉樹は水を多く吸い上げるので、結果保水量が少なくなるのでは?とのご意見でした。

 

Q5内木家の3万点の古文書はどのようなもの?
A5公文書と私信、日記が山ほどあるわけですが、 今は使わない専門用語が多いので

解読 が大変です。公文書はまだ読めますが、私信や日記はかなり読み辛いのです。しかし重要なことは私信や日記にあるようで、なかなか解析が進まない要因です。

 

 

貴重な動画をネットで見つけました

鼎伐り

http://www.youtube.com/watch?v=iANw46R8-bs&feature=plcp

堰を解く
http://www.youtube.com/watch?v=vZg1m3e-TYo&feature=youtube_gdata_player
http://mpedia.jp/%E9%89%84%E7%A0%B2%E5%A0%B0

 

 

※  ネットで「いでのこうじ」と検索すると、「井出の小路」、「出ノ小路」などいろいろな漢字が出てきます。加子母村で頂いたパンフレットに書かれている表記に従い、

「出之小路」に統一しました。

(文責:寺川千佳子)