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2013年2月8日

緑の列島 木の家スクール富山2012 外部研修 構造要素実験

今回は、外部研修に行ってまいりました。
場所は、金沢工業大学やつかほリサーチキャンパス内にある地域防災環境科学研究所です。講師は、同大学の教授である後藤正美先生。
外部研修は、実験の見学および後藤先生の講義を聞くという内容です。
緑の列島ネットワークが事務局としてお手伝いさせていただいている「伝統的工法の設計法作成及び性能検証実験検討委員会」の実験もここで行われています。
今年も、その実験の一部を見学させていただくことになりました。今回見学させていただく実験は、背の高い土壁の面内せん断実験です。
まずは、後藤先生から実験の説明。

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上記の委員会で、以前から土壁の実験はたくさん行われてきたが、今回の実験は一般的な高さの壁でなく背の高い壁。
一般的な耐力壁実験の高さは2700mmですが、この実験の壁高さは4045mmというとても高い壁です。
これだけ壁の高さが高くなると、耐力は強くなるのか弱くなるのか?
実験を開始する前に、場所を移動して後藤先生の講義から。
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伝統木造は地震に弱いのか?・・・太古の時代から培われてきた木造技術と題して。
五重の塔から一般的な民家まで伝統的な木造建物の耐震性能について、また委員会の実験で分かってきたことなど、分かりやすく解説していただきました。
実験室に戻っていよいよ実験の開始です。
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土壁という耐力要素ですから、粘り強いということは皆さんご存知でしょうが、大きく傾く壁を見てそれを実感しておられたようです。
肝心の背が高いという点での結果は・・・、一般的な高さの壁と比べて少し耐力は下がるもののわずかな差であり、これだけ高くなってもほぼ同じと言って良いという結果となりました。
背が高いぶん傾く量も多くなりますので、最終的には試験機がこれ以上押せなくなるまで傾いて実験終了。
土壁が割れながら力を吸収し、木と木(柱と横架材・柱と貫)がめりこみながら粘っている様子がよく分かった実験でした。
実験を見学することによって、耐力要素のどこがどうなるかを観察し、設計に役立てていただければと思います。

木の家スクール富山では、昨年度までは全講義を受講しないと外部研修に参加できなかったのですが、今年度からは外部研修のみの受講も可能としました。
こういう実験を見学されたい方は、ぜひどうぞ。
では、来年の外部研修(実験見学)をお楽しみに!

緑の列島木の家スクール富山事務局 草野鉄男


2013年2月1日

木の家スクール 名古屋2012 第7回:12/1(土)

10周年記念 特別公開講座

 

木の新しい可能性

 

講師:伊東 豊雄 氏

 

本年度の最終回となる第7回木の家スクールは、10周年記念公開講座ということで建築家の伊東豊雄さんをお招きしました。

 

木の建築をテーマにしながら講演をされるのは初めてということで、大変貴重な機会となりました。まず、木質構造による大空間「大館ドーム」における構造と環境形成の試み、木や緑化をテーマとしたTOD’Sビル、GRIN GRIN、瞑想の森などの作品を紹介いただきました。また、木の建築として現在進行中の「みんなの森 ぎふメディアコスモス」についてもお話しをいただきました。メディアコスモスの屋根は薄い木の板を積層させて波打つ形状つくり、内部の大空間にはグローブと呼ばれる傘状の覆いを中心に書架などが渦を巻く構成となっています。渦や波をメタフォアとしながら、自然の光や空気、人の流れを喚起し、自然エネルギーを活かした心地よい空間を提案しています。

 

また、かつての日本の農村や民家に、まちや建築の未来モデルはあるというお話しにも共感しました。「みんなのいえ」は、囲炉裏端でのおしゃべりを豊かにデザインすることを目指したものであり、それが共感されベネチアビエンナーレの金獅子賞にもつながりました。

伊東さんが311以降、心掛けていることがあるそうです。

・人の批判をしない。

・小さなことでもその日から出来ることをはじめる。

・個を越える。

これまでいろいろなことを社会や政治のせいにして、でもエゴは貫こうとしていた。それをやめようと思うとのこと。そんな思いではじめた『みんなのいえ』が、広がっています。素直な気持ちで気持ちよく過ごせる社会、建築を創ってゆきたいものです。

 

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(文責:宇野)


木の家スクール 名古屋2012 第3回:7/14(土)

 「建築と政治」 建築士の社会的存在意義について

 

一部 講師: 江原 幸壱 氏 

 

以下、一部、二部ともに講師のお二人がお話しされた内容を抜粋しました。

 

ひと昔前なら、大事故が起これば名のある建築家が何らかの発言をしていたものだが、

今回の原発事故では、誰も、何も発言しないことに、今非常に疑問を持っている。

私自身は、何かが自分の思いと反対の方向に変わろうとする際には、何らかの行動をとるように心がけているからだ。

 

たとえば、伝統構法の調査をし、木造建築の良さを理解していた筈の坂本功先生が、阪神大震災のあと、建物をガチガチにする方向に意見を変えてしまった。この事態に対して、1995年に「木造住宅を考える会」を設立し、伝統建築のあるべき姿に!と活動を開始した。

2000年には性能規制が厳しくなるのを知り、性能表示評価員登録をした。しかし、これは数値化できるものしか評価しない規制で、廃棄物や環境に対しては何の評価もしないことに落胆した。

2004年は目黒公男先生に都市震災軽減工学を学び、耐震補強の大切さを訴え始めた。

2007年に建築基準法が改正(?)される際にはインターネット新聞ジャンジャンに反対意見を掲載し続けたが、社会的に影響力を持たず、その後ジャンジャンは休刊となった。

2008年には瑕疵担保法が施行されたが、保険に入らない工務店があったり、建物が強度不足と判っても建物が壊れないと保険が下りないなどの保険制度の問題点を指摘している。

2009年に長期優良(200年)住宅促進法が施行され、政府は100億円以上の補助金をつぎ込んでいる。本来長寿命の伝統構法の建物がその対象から外れているのはおかしい。

村上周三氏率いる改正省エネ法も、建築費が上がるだけで、実質省エネにはならないと、建築ジャーナルなどで問題点を指摘し続けている。

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このように、ほとんど成果が得られない活動を続けてきて、日本は社会的意思決定をどのようにしているのかが見えてきた。日本では、審議会の中で物事が決まっていくのだ。

建築行政の決定に関しては、審議官以上に住宅局長の発言力が強いことが見えてきた。

まずは審議会制度の見直しを訴えよう。見直しなくしては、日本を変える事ができない!

 

そして、建築基本法を制定して、地方分権を進め、集団規定は強化し、単体規定は緩和し、

建築主の責務を明確化し、美しい景観を守っていきたい。

 

 

「木の家と改正省エネ法」 

改正省エネ法のどこが問題なのかの解説

 

二部 講師: 古川 保 氏

                        

「この夏、熊本はゲリラ豪雨でかなりの地域が洪水の被害にあいました。雨水を川に流すから川が溢れるのです。熊本は上水をすべて地下水に頼っていますので、浸透枡にして地下に戻してやることが、理にかなっている雨水の処理法と考えます。

 

日本は南北に細長い国です。それぞれの地域には、それぞれの気候があり、問題があります。

特に省エネに関しては、それぞれの地域に応じて規制をすべきだと考えます。

 

今までも、旧省エネ法、新省エネ基準、次世代省エネ基準と基準の変遷がありました。どれも義務ではありません。銀行から有利に融資を受ける際の条件でした。

 

ところが今回の改正省エネ基準は、2020年には完全義務化されることが決まっています。

外皮性能(Q値)を上げて熱の損失を少なくし、設備性能を良くし、断熱基準を満たさない

建物は創エネ基準(太陽光発電など)を満たすことで、使用電力とトレードオフする規制です。

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たとえば北海道では年間に20〜30万円の暖房費を使いますが、日本の7割はⅣ地域ですので、暖房費は使用エネルギーのわずか10〜15%、つまり年間2〜3万円です。暖かい地方に改正省エネ基準を施行しても、建築費が100万円以上UPするだけで、半分になった電気代では元は取れません。

 

ならば、なぜ改正省エネ法を施行するのでしょう? この法律は経産省の管轄だからです。

この法律の目的は省エネではなく、経済の活性化、消費の促進。つまり、性能のよいエアコンに買い換えることを進める法律と深読みできます。

 

2020年にこの法律が義務化になると、南側に大きな開口で通風を促し、縁側と深い庇で日差しを遮る伝統的家づくりが、太陽光発電などを併設しないと建てられなくなるのです。

今のうち、みんなで声を上げて、改正省エネ法の義務化を何とか阻止しましょう!!!」

 

この後、ワールドカフェを実施し、今回の話題に関連したトピックについてテーブルごとに議論しました。写真はそのときの様子です。

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(文責:寺川)


2013年1月17日

木の家スクール 名古屋2012 第4回:8/18(土)

10周年記念特別公開講座

江戸期の木の家と次世代の木の家を繋ぐために

-重要文化財の現地調査に基づいた構法・構造メカニズムの検証-

 

講師: 麓 和善 氏、松井 郁夫 氏、鳴海 祥博 氏

 

木の家スクール名古屋2012と木塾2012の共催での講座が名工大でありました。講師をされた先生は、麓和善先生、松井郁夫先生、鳴海祥博先生のお三方です。

お三方を始め、伝統的構法の設計法作成及び性能検証実験検討委員会の構法歴史部会のメンバーの方々が、この講座に同席され、受講生からの質疑に対して、回答されていました。

 

伝統的構法は、今まさに岐路に立っていると言えます。今後の行く末の鍵を握っているのは、委員会の方々です。是非、良い道を導き出していただきたいです。

講座の中では、重要文化財に登録されている住宅の、調査の様子などを拝見しました。
長い歴史を経て残っている住宅は、歴史の重みが詰まっていました。
とかく構法や技術が取り上げられますが、住宅としての美しさや、空間構成の心地良さなど、未来に向けて、学ぶべき点が、たくさん詰まっています。

 

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また、構法的には、簡単に分類できない、多様性も持ち合せているそうです。各地域で、職人さんの知恵や工夫や努力があったのだろうと感じずにはいられません。

 

また、伝統構法の構造力学的特性を実験・計算等によって工学的に解明し、その特質を生かした構法技法を将来にわたって継承することを目指した木造建築の構法として、「伝統的構法」という定義をされています。

 

これからの家づくりに向けて、伝統的構法の新しい設計法の提案も、これから行われるそうです。ただ、その提案に対して、国交省がどのような判断をするかは、未知数のようです。

 

伝統の中で培われた技や知恵が活きる伝統的構法の設計法が、これからの家づくりに繋がっていってくれれば良いなあと、改めて感じました。

 

(木の家スクール名古屋受講生:青木正剛 氏)


2012年12月29日

木の家スクール 名古屋2012 第6回:10/27(日)

出之小路山(岐阜県)フィールドワーク

 

講師: 内木 哲朗 氏

 

尾張藩の山守の末裔(20代目)内木哲朗氏のご案内で、江戸時代には立ち入りを禁じられ“不入山”と呼ばれていた出之小路山(いでのこうじやま)に入山する機会を得ました。

 

■出之小路山とはどこ?

 岐阜県中津川市から20〜30㎞位北に川上村、付知村、加子母村があります。その辺りは銘木の産地(美濃、飛騨、木曽)の中心に位置し、裏木曽三ヵ村と呼ばれています。木曽と裏木曽にまたがる地が出之小路山です。現在も国有林ですので、入山には森林管理署への届出が必要です。 

■出之小路山の入口に立つ「木曽ヒノキ備林」の看板の記載

概況 (平成10年調査)

面積 730ha    蓄積32万㎥

主要樹種  木曽ヒノキ 76% サワラ33%

樹齢 300〜400年

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■山を守る“山守”とは?

山守とは尾張藩から山の管理を任された云わば公務員。管理の仕事には 樹木の管理をするだけでなく、境界線(幕府と藩、藩と藩)の管理、建築の確認、鷹の巣管理、山火事の消火活動、山の案内、森林警察の役目などが含まれ、山に関係する全ての仕事を任されていました。

 

境界線の管理とは、境界線上に直径約8mの周囲を石積みをして小山を築き、定期的な点検と修理を指します。境界線の長さと立地の悪さを考えると、ものすごい仕事量です。

 

鷹の巣の管理とは、巣山に雛が孵ると、幕府などに献上する鷹狩り用の鷹に育て上げるため、幼鳥のうちに巣から降ろして鷹役所へ送る仕事のこと。鷹の巣がある事を理由に入山禁止にするのは、良い木を人目から隠す目的もあったそうです。各地にある鷹巣山、巣山などの地は、銘木の産地なのでしょうか。

 

管理する山の面積は約3万ha。そのような膨大の仕事をこなす為には、年間260日は山に入り、山小屋などで暮らす日々だったとのこと。山守は苦労が多い割には報酬の少ない下級武士のようです。

 

■  出之小路山の桧の嫁ぎ先

杉村啓治氏の裏木曽三ヵ村の歴史年表をみると、昔から大桧が各地に供給されています。

・建仁 3年(1203年)伊勢外宮遷宮桧材を美濃より出す

・慶長14年(1609年)名古屋築城には総数38,000本のうち、66%に当たる桧大材25,000本が川上村から切り出されたと記述が残っています。

・天保  9年(1838年) 江戸城西の丸再建用材

・天保15年(1844年) 江戸城西の丸再建用材

・昭和9年(1934年) 姫路城の昭和の大修理の時に、芯柱として桧大材を

・伊勢神宮の式年遷宮には現在も大木を切り出しています。

・現在工事中の名古屋城の本丸御殿の復元にも木材を協力しています。

 

■  出之小路山では植林をしない訳

一般に植林の苗木は、地上に伸びた茎と同じ位の長さに直根を切り、柔らかな土壌に植えられます。長い直根を短めに切ることで横根が生え、横根が土中の養分を吸収し、幹の成長を促す効果があります。しかし岩場では短い直根と細い横根では成長した幹を支えられなくなり、雨で流されてしまいます。岩だらけの出之小路山では実生でしか木が育たないのです。当然、長い根を持つ実生では栄養を長い根にとられ、幹の成長は遅くなります。生育環境の厳しさとあいまって、それが結果として目の詰んだ良材の桧を生み出す一因にもなっています。

 

■  裏木曽三ヵ村の税の変遷

享保13年(1728年)まで、裏木曽の三ヵ村では年貢を土居、搏(くれ)、板子と呼ばれる一定の大きさと形の桧材で納めていました。塊の木材は薄板に割られ、屋根材として利用されました。江戸時代はサワラの価値は低く、桧材での納税を義務付けられていたそうです。

土居は直径3尺×長さ5尺以上の丸太を中心からみかん割にし、白太と芯を落とした台形の形。

搏は長さも幅も土居の半分ぐらいの大きさで、小径木から作られるサイズ。

元和5年(1615年)は 三ヵ村で 土居2,160駄(1駄=4本)+搏4万丁の記録があります。1729年からは、米納または金納になったそうです。伐採をしすぎて納税する桧材が無くなったのでしょうか?

 

■  トレーサビリティー

木材を川に流して輸送する絵を見ると、木材一本一本に記号や文字が書かれています。

生産地、樹種 長さ、幅、厚さ、伐出した人、場所などが記載されているそうです。

昔は品質管理もトレーサビリティーも現在以上に進んでいたことが伺えます。

 

■いよいよ山の見学

①最初に次の式年遷宮のご神木の切株を見学しました。ご神木とは内宮と外宮の御神体を納める器(御樋代=みひしろ)の材となる木を指します。御神木に選ばれる条件として、切り倒された2本の木が“人”の字を描くように重なる位置にあること、ご用材に相応しい樹齢と良質な木であること。その二つを満たす2本の木を探すのは、出之小路山でも大変なことだと説明がありました。2本のご神木が切られた跡地周辺だけは光を遮る大木がないので異様に明かるく、足元には桧やサワラの新芽が芽吹いています。桧とサワラの陣取り合戦の始まりです。この場所では、サワラが桧より優勢だそうで、いつかサワラ林になるのでしょうか。

②つぎは、次期遷宮(平成25年)のご用材に、一番最初に斧を入れた処(伊勢神宮式

年遷宮斧入式跡地)の見学です。看板には平成9年に斧入れ、高さ22m、胸高直径70

㎝、樹齢350年と記されています。遷宮の16年前には、木材の手当てを始めると言う

事は、遷宮が終わるや否や、次の遷宮の準備を始めるということですね。この場所の対

岸に、昭和9年の室戸台風で折れた初代千年のヒノキの切株を見ることができます。

 

③二代目の千年の桧は車道から山道を30分ほど歩きます。出之小路山は岩石がごろごろ積み重なっている岩山なので、どの木々の根も幹より太く、岩を抱きかかえ、横に斜めに根を張り巡らしています。やっと辿り着いた千年の桧は、高さ26m、胸高直径154㎝、材積17㎥。枝を崖側にだけ伸ばし、凛々しく直立していて、樹木に寿命はないかのようです。

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■  加子母村観光

①  明治座 

芝居好きの東濃地方にはかつて60以上の農村舞台がありました。中でも大きいのが、明治27年に村の有志たちによって建てられた加子母村の明治座です。長さ8間近くもある桟敷をまたぐ樅丸太も実生なのでしょう。人力で動かす廻り舞台、役者が自分で昇り降りするスッポン、瞬時に背景を転換する切りくずしなど、知恵と工夫にあふれています。2階客席の手すりが低く(40㎝程度)、舞台を間近に感じられ、百歳を越えてなお現役の芝居小屋として愛され続けるのが判ります。この明治座に使われている桧はたったの1本とか。江戸時代には厳しく使用が制限されていたヒノキ材を娯楽のために使うことを憚ったのかもしれません。さてその1本、どこに使われているのでしよう?

 

 

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②  山守 内木家

門の前には見事な雌のカヤの木。門をくぐると見事な百日紅の木。さらにその奥にも大正時代に東久邇宮が当地を通行するにあたり休憩された部屋もそのままに残されています。築約200年の内木家のガッチリした造り、広々とした間取り、客間の大黒柱から台所の東の端まで約4間を掛け渡してある梁の大きさと大黒柱の太さなどから、この建物はただの豪邸ではなく、迎賓館+お役所+収蔵庫の役目を担った建物故なのだと憶測できます。

 

他にも見所満載の加子母村ですが、今回はこれでお仕舞い。時間切れでした。

内木さんの山でのお話は建築関係者用、一般の大人用、子供向け、女性向けなど、など、

いろいろなバリエーションがあるそうです。またの機会に加子母村を再訪し、

別バージョンのお話を伺いたいものです。

 

■  おまけに、移動中のワゴンの中で内木さんからお聞きした興味深い話を紹介します

Q1現在の森と、昔の森の大きな違いは?

A1江戸期は択伐をして、実生によって森がよみがえり循環するシステムでした。だから、下草刈り、枝打ち、間伐も必要ない、山に任せた林業です。

江戸期には、身分上、一般人は建材としてヒノキを使えなかったことから、クリなどの雑木もニーズ、リクエストがあったようです。 そのため、クリなども植林していました。 その場合、実生の苗の直根を伐らずに移植していました。結果として、山に実が生り、熊や猿も生き場所があったわけです。

 

Q2なぜ、鼎伐りにする必要があるのか?
A2大木を伐るときには、現在のチェーンソーでの伐り方だと、途中で裂けてしまう恐

れがあります。鼎伐りは3か所残してくり抜くのですが、倒す方向を広めにとって

おくことで、正確に倒す方向を定めることができるのだそうです。それほどの大木

でなければ、今の伐り方でも問題ないのですがというお話でした。
 
 
 

 

Q3急峻でまともな道のない山の中で、どのように木材を伐りだしていたのか?

A3 杣人は10数人でチームをつくり、伐採などの時期になると山小屋をつくって、
長期にわたりその中に寝泊まりして作業をしていたそうです。 戒律が極めて厳しく、大変だったようです。

 

Q4どのように川に流したのか?

現在の谷川を見ると、とても材木が流せるような水量ではないが、どうして流すことができたのかという質問をした。

A4材木で堰をつくり、水をため、堰を解いて一気に流したとのこと。当時は広葉樹が多かったことから水量がもっと豊かだったのではないだろうか? 針葉樹は水を多く吸い上げるので、結果保水量が少なくなるのでは?とのご意見でした。

 

Q5内木家の3万点の古文書はどのようなもの?
A5公文書と私信、日記が山ほどあるわけですが、 今は使わない専門用語が多いので

解読 が大変です。公文書はまだ読めますが、私信や日記はかなり読み辛いのです。しかし重要なことは私信や日記にあるようで、なかなか解析が進まない要因です。

 

 

貴重な動画をネットで見つけました

鼎伐り

http://www.youtube.com/watch?v=iANw46R8-bs&feature=plcp

堰を解く
http://www.youtube.com/watch?v=vZg1m3e-TYo&feature=youtube_gdata_player
http://mpedia.jp/%E9%89%84%E7%A0%B2%E5%A0%B0

 

 

※  ネットで「いでのこうじ」と検索すると、「井出の小路」、「出ノ小路」などいろいろな漢字が出てきます。加子母村で頂いたパンフレットに書かれている表記に従い、

「出之小路」に統一しました。

(文責:寺川千佳子)