公開イベント

2010年9月12日 記録ビデオ:

2010年9月12日(日)に金沢工業大学で行われた金沢シンポジウムの、記録ビデオ・発表スライド・発言テキストを公開します。

伝統的構法の継ぎ手・仕口について
構法・歴史部会 麓和善 主査

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発表スライド

大江忍(第二部司会進行):それでは、ただいまより第2部のシンポジウムを始めさせて頂きます。司会進行役を務めさせて頂きます、本委員会の事務局をやっております、緑の列島ネットワークの大江と申します。よろしくお願いいたします。
まず初めに、構法・歴史部会の主査をしていただいております、名古屋工業大学の麓先生より、伝統的構法の継手・仕口についてということで講演していただきますので、よろしくお願いいたします。
このあと順に、4人の先生方にお話しいただくのですが、質疑の方は、休憩のあとまとめて先生方4人に前に出ていただいて、どなたに質疑という形でしていただきますので、すみませんけどもそういった形で、よろしくお願いいたします。また時間の方は今進んでおりますので、延長して進めていこうと思っておりますので、よろしくお願いいたします。 それでは麓先生、よろしくお願いいたします。

麓和善 主査:構法・歴史部会の主査をやっております、名古屋工業大学の麓と申します。よろしくお願いいたします。今回の委員会は、伝統構法の設計法作成および性能検証実験検討の委員会ということで、まず伝統的な構法を用いるんだということなのですが、この伝統的構法が、意外と言いますか、人によってとらえ方が違う。そもそも何を以て伝統的だというようなことにするのかというのが、最初に問題になりました。そういうことを正しく、認識して、ということのために構法・歴史部会というのが設けられたので、私のこの部会でまず、伝統的なものとは本来何かということを申し上げたという上で、ではその伝統的構法に具体的にどういうものがあるのかということを申し上げていきたいと思います。その中でも、今日は特に、継手・仕口、しかもこれは江戸時代から明治期くらいに作られた、日本の古典建築書にみる継手・仕口について今日はお話したいと思います。

まず、さきほどいいましたように、何が伝統かというときに、いつごろの構法を以て伝統的とみなすのかということがあるかと思います。ちょうど明治24年に濃尾震災が起こります。それで、大きな被害を受けるわけですが、その14年前、明治10年に、本格的に日本でアーキテクト教育が始まるのです。建築家教育が始まって、その14年後に濃尾震災が起きます。初期のアーキテクト教育というのはヨーロッパの建築学を導入するということなのですが、そヨーロッパの建築から見てみると、日本の当時の木造住宅が非常に耐震的に弱い物に見えたわけです。濃尾震災でもそういった被害を受けていた。例えば、木造の和小屋よりもトラスの方が強いというような、単純に思われたわけです。ですから、濃尾震災以降、日本の木造建築の近代化というときに、耐震的に非常に丈夫なものを作るという考えが、ここで生まれたのです。特にその濃尾震災の翌年に震災予防調査会というのが設立されるのですが、さらにその2年後に山形県の酒田沖震災というのがありまして、その復興家屋構造を作る指針として、木造耐震家屋構造要領というのが発表されました。ほぼ同じ頃明治24年〜明治26年にかけて、大学で建築を学んだという人ではなくて、実際にアメリカに行って建築の実務をやって勉強したという人なのですが、その人が日本に帰国して、建築学会の機関誌、建築雑誌に、日本家屋構造の欠陥とその対策というのを発表しました。簡単に言いますと、屋根の重量が過大であるということ、柱が独立しているということ、ほぞ穴と継手・仕口の部材の切り欠きが多いということ、貫や楔による固定が一時的であるということ。これは楔を抜いて、貫をとってという解体ができるという、継手・仕口もそうですが、今きちんと判断すれば、決して悪いことばかりではなくて、日本建築の良さというのがこういう所にもあるのですが、耐震的にはこういったところが欠陥であるということを彼は考えたわけです。その対策として、筋交いや土台の設置の必要性、木造各部の固定金物の考案とその使用法、彼自身がそういう金物をこの時に考案して、その使用法を説明しています。さらにそのあと、大正5年になって、日本の建築構造力学の先達ですが、佐野利器によって、家屋耐震構造論というのが発表されます。そこに書いてある木造家屋のところには、土台は柱脚を連結するに最も有効なり、土台は側石にだぼ又はボルトによって固定せらるべし、柱は全てほぞ立てとなすべく土台との接合にはかすがい、筋交いボルトまたはその他の金物を用いるべし、と今普通に考えられているような金物を使った補強方法というものが提案されたわけですね。

その後の今日までの耐震性能の考え方は、一般的には、土台と柱の足下を基礎に緊結して、接合部にはより強度の高い継手・仕口、金物を用いて、そして部材の欠損部を補うためには部材の断面寸法を大きくするということが行われてきたと思うのですが、この過程において、本当に石場立ては耐震上問題がどの程度あるのか、今で考えるような耐震診断、力学的な性能をきちんと評価した上ではないのです。小屋組にしてもそうですし、色々な継手・仕口もそうです。全て、そうしたことが評価されることなく、伝統的な木造家屋の欠点だという烙印が押されて、こういった改造が行われてきたと言ってもいいと思うのです。今回の委員会の目的というのは石場立てを含む伝統構法の優れた変形性能を構造力学的に解明する、これまでしていなかったことを構造力学的にきちんと解明しようということです。それで、それには今申し上げた、濃尾震災以降の改良なり改変をしてきた構法よりも、それ以前の構法をきちんと評価した方が良いというのが、構法・歴史部会の考え方です。

濃尾震災以前、ではいつまでさかのぼるのか、先ほどの唐招提寺金堂のようなものを考えるのかと、まぁ住宅を主としておりますので、住宅ということになれば、もっと時代を下げてきていいのではないかということで、江戸時代以降から明治の伝統的な構法というものをきちんと把握して、その性能検証実験を行うのがいいのではないかということです。ただ、よくこういう話をすると、今度の委員会では伝統的な継手・仕口だけを使って建物を造るのですかと言われるのですが、そうではないのです。その伝統的なものを構造力学的に性能評価をした上で、良い物はそのまま使えば良いですし、構造力学的に不足があるものは改良をしていくという方向に進んでいけばいいと思うのです。そんなように、まずはきちんと実験をして性能の評価をしましょう。そのためにも、まず伝統的な構法、江戸時代から明治初期までの伝統的な構法というのは何ですかと、それが一番簡単にはっきりわかるのは、一つはその頃に書かれた建築の本、江戸時代から明治初期にかけて日本の建築、それも教科書的に日本の建築を書いた本というのがたくさんでているのです。

ざっと、私の師匠の時代からそういうものを収集しているのですが、日本中に600以上の教科書的な本があります。その中に、木割れのことが書いてあるとか、建築彫刻のことが書いてあるとか、数寄屋のことが書いてあるとか、座敷のことが書いてあるとか、色々なことが書かれているのですが、構法そのものを集めたものもありますし、その中には継手を扱った物もあります。そういう教科書的にかかれたものを、きちんと調べれば、当時の構法というものが正しく把握できます。もう一つは、実際の当時の建物、そのほとんどは文化財に指定されているようなものなのですが、構法を調べようという時に、今建っている建物からだけでは、十分なデータが得られないのです。継手・仕口にしても実際に建っている建物では見えないところに、継手・仕口があることが多いものですから、中々正確にはわからない。でも重要文化財の場合は、解体修理をすると、隠れて見えなかったところの情報を写真や図や表にしてまとめて修理工事報告書というものが刊行されるので、そこに豊富なデータがある、明治中頃以前の建物の、文化財、特に住宅等を見ていくためには修理工事報告書が非常に有効であります。この2本立てで、データを蓄積していこうとしております。

今日お話するのは、その中でも継手・仕口を中心にお話をします。先ほど申しましたように、全体で600冊以上の書物があって、構法雛形は約80本あります。その内、継手・仕口雛形というのは25本あります。これ全部が全く違った内容を書いているわけではなくて、あとでまとめて説明しますけど、初期にまとまった非常に良い物ができて、そのあとにそれらを引用して、それに新しいものを少しずつ加えながら、ということです。ですから、全然別なものが25本あるという風には思わないでください。今だって普通に仕口・継手について刊行されているものを手にすると、基本的なものはどれを見ても同じということがありますように、それらはあまり変わらないということがあります。そういう古い本に江戸、明治期以前の日本で書かれた本を、一度17年前にまとめて出版しております。日本建築古典叢書第8巻、近世建築書、構法雛形というものにまとめてあります。全ての資料をそこにあげております。それをまとめてみますと、全25資料にまとめられた継手・仕口は105種類あります。こうものを、なるべく詳しくこの教科書的な継手・仕口の本に書かれている、具体的な継手・仕口はどういうようなものがあるかというのをなるべく時間の許す限り、丁寧に説明していきたいと思いますが、今後はそれを用いて、部位や部材別に用いられる継手・仕口の種類を分析したり、継手・仕口がどういうように変化、発展していったりしたかということについても考察していきたいと思っています。ただ、今日はまず継手・仕口雛形に書かれている継手・仕口に一体どのようなものがあるかというのをご覧に入れたいと思います。ほとんど皆さんが知っているようなものも、もう既に1700年代に出ているのですが。

最初の物は享保13年、1728年に書かれたもの、これが確認されている一番古いものです。書いた人は甲良若狭棟利という人なのですが、これは甲良家という幕府作事方大棟梁という、当時の建築技術官僚のトップですと思っていただければよいです。この3代前の人が、今の日光東照宮を造った人です。その子孫が書いた物、甲良家の技術をまとめて書いた物です。これがその内容です。最初に、表紙の裏にきちんとその年代と官大棟梁という幕府の大棟梁、それで自分の名前が書いてあるのですけれど、教科書的に書かれていますから、書く順番もよく考えられています。構法順というか工程順というか、土台から段々と上に、積み上げていくような、そんな書き方になっています。まず土台については隅のところ、襟輪でこのように小根ほぞ差しにして、割楔で絞めるようなやり方とか、横から蟻で入れるようなものとか、柱が立つ部分には扇ほぞが書いてあるとかということが書いてあります。今度は柱の上になりますが、台輪のところの仕口があったり、桁の継手があったり、これは所謂腰掛けの鎌継ぎです。それとかこんな風に襟輪付きで柱をあまり痛めないような襟輪付きのものとか、これは土台に戻っていますが、土台の継手で、これは追っ掛け台栓継ぎですね、それでちょうどここに柱が立つというようなことが書いてあります。そしてその土台に大引きがかかる仕口はどうなっているかとか、これは腰かけの蟻になっています。そして、土台の上に柱が立つ場合もあれば、柱勝ちにして隠し土台とかいうようなやり方していますが、付け土台にすることもあります。柱の端部はこれは重ねほぞになっています。そしてここには柱の中での貫の継ぎ方が何種類か書いてあります。ここでは、向こうとこちらから同じ高さで直行して貫がかかると、そこの継手として、半分欠いて、上に逆鎌半分のものとか、あるいは、同じ高さで四方から来ないところは、こういうような略鎌であるとか、鎌にして込み栓にするとかというような方法が書いてあります。小根ほぞにする場合もあれば、落とし鎌にする場合もあります。そしてこれは、礎石の上に柱を立てて、それを2本足固め材を、はさみこむような形で繋ぐような形にしていると。そしてそれぞれのところはまた追っ掛けにして、これは金物で絞めています。

古い物でも金物を一切使わないというわけではないです。こういう場合に、金物の方が良いと判断して金物を使っていることもあります。いずれにしても柱の両側から根本の足固めではさみこんで固定する、そしてそれぞれの継手の位置を変えています。あとは大引きの上が渡り顎になっていたり。これはまた別な足固めです。柱があって、これも柱勝ちですが、礎石の上に柱があって、両側から足固めが来て、こちらが丸足固めが来るとか。足固めのところは横っ面から竿を出して、車知で止める方法とか。ここにはこういう襟輪がついています。こういうところは、この側足固めのところに、こちらの丸土台のほぞが出てきて鼻栓で止めるとか、あるいは束の両側を挟み込むような足固めであるとか。これなんかは非常に丁寧な仕事だと思います。

今度は桁の継手です。これは柱の上で継ぐ、真継ぎです。この下の柱のそのほぞが点線で書かれていますが、その上端の部分にこういった鎌継ぎがくる、両方に目違いがついた鎌継ぎがくる、この下のところまでほぞがのびるという、桁の鎌継ぎです。その奥には、片側は鎌ですが、片側は車知になっているという方法もあります。今度は持ち出したものです。これは持ち出して、柱の上へほぞがのびて、桁が持ち出して、桁がメスの方で持ち出して、その上に腰掛けるような形の鎌がある、あるいは、これは梁の上に、桁を渡り顎でのせるとか、梁の台持ち継ぎであるとか、その台持ち継ぎもだぼのあるものと、ほぞが伸びるものということが書いてあります。あるいはここには、桁の上に梁がのる場合に、蟻のついた渡り顎になっています。このように、ほとんど全てを網羅するような形で、合掌の組み方、そしてこれは破風板が取り付く化粧棟木であるとか、差し母屋のところに破風板が取り付く収め方であるとか、桁を組むときの掛け鼻にして車知で止めるようなやり方であるとか。さらに軒先にいって、これは住宅ばかりではなくて、社寺のことも想定しておりますので、隅木があって木追い茅追い。上の段、これは木追いです。木追いが隅木に当たるところとか。これは茅追い、所謂茅追い継ぎですね、鎌の正面のところにこういう斜めのものにする、胴突きにしないで斜めにする。削ぎ継ぎの部分を作り、その奥で鎌継ぎにする、所謂茅追い継ぎと呼ばれるものです。それとか破風の一番裏のところの、つかみ蟻であるとか、もう一度台持ち継ぎが出てきています、布継ぎもあります。そしてこれは柱に差物ですね、1700年代に既に、こういった差物も使っているわけですが、この差物を雇いにして、ここの蟻のところを下から上にいれておいて、そしてこちらの差物を入れて、上から車知で絞めるというようなものが出ています。あるいは箱継ぎ、三角形についで、金折れ目違いを入れた箱継ぎにするとか。長押の金折れ目違い継ぎであるとか、これは縁の部分ですね、縁束と縁葛のところ縁板がけのところは、吸い付き蟻にするとか。

さらにこちらは、鴨居ですね、敷居鴨居のところ、これも幾つかはあると思うのですが、例えばここの鴨居の所は一端大入れで入れておいて、やり返しにしてここに木を埋めて、やり返しにした反対側の方が抜けないようにするというやり方であるとか、一文字ほぞにしたり、敷居のまちほぞにしたりということ書いてあります。長押の隅のところ、雛止めにするとか、枕さばきにするとか、雛止めのディテールまできちんと書いてあります。段々と化粧の部分に行きます。今度は天井の間あり縁であるとか、竿縁であるとかいうものの継手です。さらに天井板の蝗差しにするものとか、椅子担ぎにするとか、これは箱台持ち継ぎであるとか。建具の框のところの細工であるとか、これは四方鎌とか四方ありも、既にこの時代に出ております。棚のところの筆返しの取り付け方であるとか、海老束を寄せ蟻にして取り付けることが書いてあります。

ざっと今のを見てきただけで、実際に数えると58種類、全部で継手・仕口雛形に書かれている物、名称の違いとかはあるのですが、大体それをまとめると100種類強あるのです。数え方によって少し上下しますが。その内半分以上が最初の継手・仕口雛形で取り上げられています。非常に全体的に良くまとまっているものですから、この本はずっとその後も引用されています。明治になってもこの本は使われています。この本からの引用の図が出ているのです。というのは、ここに書いてあるような物、ここで紹介したようなものはほとんど、その後変わりなく使われ続けています。特に御殿のような良い建築に使われています。そうではないもの、普通の住宅のような物でも、基本的な、桁を両目違い鎌継ぎにするとか、梁を台持ち継ぎにするだとか、ほとんど同じような基本的に同じやり方をずっと続けてきたと思います。そういった意味では、継手・仕口は時代とともにどんどん発展してきたということはないと思います。もっと古い時代を見ていけば、飛鳥時代から江戸時代までを見ていけばそれは変遷というのはあるのですが。

そうったことで、翌年にまた同じ甲良家から出ています。これちょっと面白いのが構法全般のことが書いてあって、水盛りやり方、語源にもなっているような水盛りの方法ですね、それで水平を出す。もう少し簡単に水平を出すやり方として、戸板に直行する2本の線をひいておいて、下げ振りで垂直を出して、その垂直に、直行する縦水を合わせると、自動的に陸水が出るというような方法も書いてあります。教科書的に一つの建物として、3間かける6間の2階建ての建物をここで標準的な例として出しています。礎石の据え方、土台の据え方などということが書いてあって、そしてその上で継手・仕口のことが書いてあります。継手の、これは角材の4面を広げたような形で作図してあります。この作図方法も、当時の本として出ております。先ほどの2階の4間6間で、1間ごとに柱が立っておりまして、その半分、3尺のところに間柱があったと。梁のかけ方がどうか、もっと全般的な梁のかけ方がどうかということも書いてあります。

偶然ですけれど、今回実大実験をやるのが、3間6間なのです。直接こんな建物があるかということよりも、モデルというものを考えますと、この時代もこのくらいの建物を表すと説明がし易いというようなことがあったのでしょうね。偶然にも今回も張り間3間けた行6間の建物を造っております。そのほか、同じようなものがありますけれど、出てるのが新しいものを少し言っていきます。4方差しにする場合、これは足固めの4方差しなのですが、4方差しにする場合、こういう風にふなほぞといいまして、下を丸くしておいて、丸くしたところを滑り込ませるような雇いほぞが出ております。あるいはこれは大岸ほぞ、筏ほぞが出ていたり、椅子担ぎが出ていたり、雇いの鎌継ぎが出ていたり、地獄ほぞがあったり、というのがあります。あとはよく、貫の上に直接板を張るということがあります。そういうことがこの資料には書かれています。柱のところには楔をうって横に板を張っているのですが、そうすると楔も抜けないわけですね。これは2枚鎌継ぎがあったり、薄鴨居を吊り束で吊るときに、2枚の寄せ蟻にして吊るというような方法が書いてあります。

こういう資料で、金沢の、加賀藩大工、清水家に伝わるものもあります。非常に図がきれいな、正確な図ですが、やはり差物の継手、これは所謂継手の竿車知継ぎですが、2方向から差した時の竿車知継ぎ、4方から差した時の竿車知継ぎが書いてあります。あとは、ちょうどこの実大実験の継手・仕口を検討しているときに、2階梁をかけてその上に2階の柱を管柱として立てる時に、竿車知継ぎの上に柱を立てないといけないので、どうしようかと悩んだことがあったのですが、それに類するような資料がここにも書かれています。これは下の部分ですが、鎌で継いで、その鎌の上に柱を立てる時にどうすれば良いか、鎌の首を挟んで、2枚ほぞにするようなものが書かれています。これを知っていたわけではないのですが、やはり解決方法としてこのようにするしかないということを考えたのですが、同じようなことがきちんと出ております。そのほか、差物の図が色々あります。そしてそれと化粧的なものがこのころから増えてきます。蟻を見せないために、蓋をするようなもの、これは阿弥陀鎌という名称がついていますが、そういう継手があったり、アキ様継ぎという宮島継ぎのようなものなのですが、これも化粧的なものですがこういうものがあったり。さらにはこういうような、当時の大工の教科書、大工の教科書というよりは寺子屋で文字を勉強するための教科書というのがあって、それをおおらい本といいます。これには建築工事に必要な用語がずらずらとたくさん並んでいて、上に継手・仕口が挿絵として入っているようなものもあります。

そういうもののなかに、江戸時代も後期になってくると、非常に、強度のことよりも、意匠ですね、デザイン的に面白い物がどんどん出てきます。これは4方鎌の上下逆になったものですが、その分解した物、あるいは4方金輪とか、4方松川、さらには霞がたなびくようなうんか継ぎであるとか、水の流れのような水流継ぎだとか、このようなものが出てきます。ですから基本的な物には変化がないですが、むしろ継手・仕口を化粧材にどううまく使っていくかということ、それで新しい意匠も出てきますし、さらに継手・仕口をあえて見せる、意匠的に見せてしまう、今回やるものとは方向性が全然違うものですが、単純に継手・仕口の変遷ということから言えば、段々と、本来は継手・仕口を見せない方がいいというものが、化粧材として、あえて大工の腕の見せ所で、うまい継手をみせるようなことも出てきております。むすびは時間もオーバーしましたので、特には話さないで、今の最後に私が申し上げたように基本的なものは1700年代には出来ている。もちろん本が書かれる以前にこういった継手・仕口は成立しておりましたので、それ以来、継手・仕口について言えば、大きな変化はなかったといっていいと思います。ただ、化粧で見えてくるところに大工の腕を見せるのだということによってこういう新たな継手・仕口が増えてきたということができます。以上です。